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保険 見直しの常識

ニューヨーク市場の株式暴落は、ドイツなどからの資金引揚げを招き、現実に世界恐慌の引き金になった。
これに対して八七年のアメリカは、経常赤字を続け、常に海外から資本の流入を必要としていた。
流入が必ずしも保証されたものでない以上、ブラック・マンデーも、結局はこうしたアメリカの金融・証券市場が内包する不安定性の一部と見るべきであった。
ドルが不安定であるからこそ、なるべくその影響を受けないように、と各国政府は知恵を絞る。
しかし、日本の金融政策当局はそうは考えなかった。
不安定性があるからこそ、ウォール街を安定させることは、国際政策協調の精神に沿った「債権国・日本の責務」でもあるというぐあいに考えた。
こと経済にかぎらず、こうした思考法は、現在まで強く根を張っている。
ブラック・マンデーは、表面上はプラザ合意に始まる国際政策協調のほころびを示していたが、その修復の役割はもっぱら日本に割り当てられた。
ここで、政策協調のほころびとは、次のような事実をさす。
八七年に入り、FRBではポール・ポルカーに代わりアラン・グリーンスパンが議長となったが、九月には新議長のもとで公定歩合の引上げが行われた。
先のランダルによると、その際、ベーカー財務長官はグリーンスパン議長に、あらかじめ日銀とドイツ連銀に対して追随利上げをしないことを確約させるべきだ、とアドバイスしたという。
が、議長は聞き入れなかった。
そこで、ベーカーはドイツが若干の金利引上げに動いた際、これを国際政策協調にもとるものとして厳しく批判し、これではドルの安定は確保できない、と言明した。
これが「協調」を前提としている米証券市場の不安をかき立て、現物・先物両市場間で悪循環が働いて、「売りが売りを呼ぶ」展開になった、というのが暴落の大筋であろう。
ウォール街の崩落を前にして、「日本が頑張らねば」という決意のもとに、日本の金融政策当局は二つの課題を実行した。
第一は、緊急策として日本の証券市場の反転上昇である。
このため、大蔵省は四大証券に、ただちに大規模な株式貴い出動を行うよう、「意向」を示した。
たまたまブラック・マンデー翌日の火曜日は、大蔵省担当官と四大証券代表の月例昼食会があり、きわめて微妙なやり取りのなかで大蔵省(政府)の意向を把握した四大証券が、ただちに大規模な買い出動に入った。
この経緯については、さるイギリスのジャーナリストによって詳しく描写されている。
大蔵省の暗黙の行政指導は、緊急作戦命令の色合いを帯びていたということである。
さらに大蔵省は、株式の新たな買い手として、特定金銭信託やファンド・トラストを動員しようとした。
これらは、当時の株高を眺めていた企業が、いわゆる財テクのため特定の資金で設定したファンドである。
その運用について、大蔵省は、かねて設けていた種々のガイドラインを緩和し、株式の購入を促す。
こうした方針が明らかにされた以上、ファンド・マネージャーとしてもその方向に動かざるをえない。
こうして官一財の力学は、はるか金融村を越え、一般企業にまで広がっていった。
東京証券市場を持ち上げようという作戦は、もちろんそれによって「基準」としてのウォール街へ波及効果を、という使命感の発露であったろう。
ブラック・マンデーの事後処理において、わが大蔵当局が見せた獅子奮迅の働きは、日本のドルに対する過剰な思い入れを世界に印象づけた。
日本の金融政策の基本スタンスがあくまでも対米協調にあること、ドルを支え続ける以外に独自のマネー戦略を持たないことを進んで告白したようなものである。
ここでドイツを例に引こう。
ドイツはブラック・マンデーの引き金となったベーカー発言を受けて、十二月にはわずかに金利を引き下げへ政策協調路線に配慮は見せたものの、八八年七月からは早くも金融政策を転換し、その後は相継いで金利を引き上げている。
同じ第二次世界大戦の敗戦国として、また冷戦下における、いわゆる「西側の一員」として、ドイツもまた、かつては米ドルの主要なサポーターであった。
たとえば、一九六〇年代の後半に、防衛肩代わりに対する見返りとして、ドイツは四点にわたる利益の供与をアメリカに約束している。
第一に、ドイツ連銀は、保有ドルの金への交換を停止する。
第二に、アメリカの財務省証券を大量に買う。
第三は、米国製兵器の購入比率をあげること。
第四としてドイツ国内の米軍の装備向上に財政負担を講ずること。
しかし、そのドイツも十年後の七〇年代末には'ドルと訣別する道を選択している。
これはすでに見たとおりである。
ドイツにくらべて政治的自由度の少ない日本は、経済面でも健全な自主的思考能力を喪失させていた。
それを世界に示した点で、ブラック・マンデーに対する日本の反応はまことに象徴的であった。
実物投資へドル安転換で米国債投資が膨大な為替差損を生んでいたにもかかわらず、ジャパン・マネーは当局の指導許可を得て、引き続きドル債への投資を継続していた。
だが、その一方で、為替リスクの少ない直接投資に資金をふり向けようという試みも目立つようになっていた。
工場や店舗の対米進出、あるいは不動産取得などの実物投資が、日本企業の新たな投資戦略として浮かび上がる。
ドル債の継続などと違って、これらの新規投資は、今までに為替差損を被っておらず身軽であるうえ、ドル安で円の購買力が上昇し、米国内資産が割安化したことのメリットを、フルに享受できるように思われたからである。
工場進出などの直接投資は、長期にわたってドルの世界で利益を得ようとするものであるし、不動産などの実物投資は、その後の値上がりがドル安を相殺するかもしれないという点で、唯一残されたポートフォリオ投資であった。
八〇年代半ば以降、日本の対米直接投資は急増した。
ドル・ベースで八四、八五年には前年比三~四割、八六年には倍増といった増勢である。
この結果、累計額としては三五〇億ドルとなり、これは日本の全地域への投資額の三分の一を占め、投資先一国としてはむろん最大となった。
アメリカは、直接投資の相手先としても、日本にとって最大、最重要の比重を持つにいたった。
とはいえ、これをアメリカから見ると、日本から見た場合ほどの比重を持っているわけではなかった。
米商務省によると、日本の対米直接投資残高は八七年末に三三〇億ドルで前年末より約二四%増えた。
ただし、それでも全地域からの合計額のなかでは一三%にすぎない。
日本の対米投資は歴史が浅く、先行のイギリス、オランダに次いで残高ではなお第三位であり、イギリスの七五〇億ドルにくらべれば半分以下の規模だった。
問題は、絶対水準ではまだこのレベルにおりながら、日本の対米直接投資は、なぜか現地でのプレゼンスが目立ちすぎる性格を持っていたことである。
工場などの対米直接投資は、既存の東北部の「錆びついた」工業地帯を避け、南部あるいは西部に対して行われる傾向があり、立地した各州から雇用創出などの点で歓迎され、用地や道路などインフラの提供や、税制金融面での支援を受けたりもした。
だが、ジャパン・マネーは、さらにドル安で割安化したように見えた不動産の取得、企業のM&Aなど実物投資にも向かった。
これが命取りになった。
不動産投資は、ずばりプラザ合意以降の現象だが、早くも八八年には一六五億ドルというピークをつけた。

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